2008年01月11日

梁塵秘抄493番から

久々の梁塵秘抄です。22回目にもなると、もうそろそろしんどいですね。

『南無阿弥陀 仏の御手に掛くる糸の 終り乱れぬ心ともがな』(493番)

これは3句目が6音の字余りになつてゐる以外は、
まず、そのまま短歌の韻律になつてゐます。


その頃は戦乱が続く世でした。何時戦に巻込まれて命を落すか分らない。
人々は仏にすがるより安堵するすべもない。
そんなときの素直な信仰が読取れます。

「終り乱れぬ心ともがな」に万感の思ひがあるやうですね。

何時の世でも、終りの時には安らかでありたいとの願ひは変りません。

それにしても、今はよろずにつけ贅沢過ぎる時代です。
平和ボケしたJoeのわがままによると、次のやうな歌と相成ります。

仏さま 平にお許しくだされませ。


阿弥陀仏やさしく御手をくだされどわが乱心の終ることなし 


み仏のこころもしらずさまよひて酒のみあかす紅燈の街


乱れたる心のままに弥陀佛の膝に伏すればなみだし流る


み仏の許にも行けぬ乱心の吾(あ)はさまよへる一人(いちにん)の修羅

タグ:修羅
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2007年11月11日

梁塵秘抄485番から

485番 恋しとよ君恋しとよ

『恋しとよ君恋しとよゆかしとよ 逢はばや見ばや見ばや見えばや』 (485番)

昔の人はこのやうに直裁に恋心を表現したんでせうね。
この小歌は形式こそ(575777)の和歌の形になつてゐますが、
心情の表し方そのものは、この時代の和歌にはない率直さがあります。

その点Joeの歌の方が屈折してゐる。ヤッパボクは現代人ですね。

ひと目見て石となるともメドゥーサのきみに逢はばや見ばや見えばや
タグ:メドゥーサ
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2007年11月06日

梁塵秘抄460番から

460番 恋ひ恋ひて

『恋ひ恋ひて たまさかに逢ひて寝たる夜の夢はいかが見る さしさしきしと抱くとこそ見れ』 (460番)


不思議ですね。この小歌には全くいやらしさがない。
昔は恋人同士が身体を交す愛を、こんなに率直に歌ってゐたのですね。

通ひ婚がまだあつたころのことです。なかなか逢ふ機会がない。
逢ひたい逢ひたいと想ひつめて、やつと逢へたいとしい人・・・

きつく抱きしめて愛を確めあつて眠る。その夢にまでまだ抱きしめあふ・・・
これはすごい。愛の極致と言つてもいいでせう。

もう、その純粋さに感動するよりほかありません。

(いめ)にまでさしさしきしと抱きたるいにしへびとの直き恋はも

先日題詠100首(098:ベッド)で次のやうな歌を載せましたけど、
これも梁塵秘抄の460番を意識したものでした。
北欧のアイスホテルの氷のベッドが背景にありました。
でも、これはなんか汗顔ものの下司の表現ですね。いまさらながら恥ぢてをります。

胸合はせ腕さし交はす恋人のベッド融けゆく氷のホテル

タグ:通ひ婚
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2007年11月05日

梁塵秘抄454番から


P1030032.JPG
454番 冬来とも柞の紅葉…

『冬来とも柞(ははそ)の紅葉 な散りそよ 散りそよ な散りそ 色変へで見む』 (454番)



11月に入りました。あと二十日もすれば、京都の楓紅葉も真盛りとなるでせう。
深紅に染まったあでやかな紅葉は京ならではのもの。
高尾や大原の奥から始まって、だんだん下へ降りて来るんですね。


でも、この作者は派手な楓や蔦紅葉を歌っているのではありません。
里山の何処にでもある柞(ははそ=楢や櫟の雑木)の紅葉を愛しんでゐるのです。

「な散りそよ 散りそよ な散りそ」

この三度の繰り返しに、雑木紅葉への愛しみが深く感じられます。
ひえびえとした冬近い里の、黄金や紅の彩りは、少しずつ色を深めながら、
やがて凋落の季をむかへます。 私たちの生と同じやうに・・・

も一度繰り返しませうか。
  「な散りそよ 散りそよ な散りそ…」


冬来とも柞(ははそ)の紅葉里山をなほ彩りて舞ふぞかなしき


虫食ひの紅き葉ひとつ夢見つつ散る日を待てば木枯らし聞こゆ


残念ながらJoeの歌は、まだ元歌の表現には程遠いですね。

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2007年11月03日

梁塵秘抄438番から

題詠100首も終つたので、少し余裕ができました。
しばらくぶりで、梁塵秘抄に行きますね。

438番 「ゐよゐよ蜻蛉よ」

『ゐよゐよ蜻蛉(とうぼう)よ 堅塩参らんさてゐたれ 働かで 簾篠(すだれしの)の先に馬の尾縒り合はせて かひ付けて 童冠者(わらべくわざ)ばらに繰(く)らせて遊ばせん』(438番)
 
 子供の頃に土佐で唄つてたのに、次のやうな里謡がありました。

「とんぼとんぼ おとまり 明日の市に 塩買うてねぶらいちゃお」(土佐里謡)

 よく藁しべなどを持つて、このうたを唄ひながら蜻蛉釣りをしたものです。蜻蛉が塩を舐めるのかどうか、今でも知りません。また梁塵秘抄との関連も今もつて分からないのです。
 
 この小歌もかなり残酷さを含んでゐるやうに思ひます。「かひ付けて童冠者ばらに…」と言ふところに特にそれを感じます。子供とは残酷なものとある友人が言つてましたが、本当は人間の持つ本性そのものが残酷なのかも知れません。さうこうしているうちに、修行とかを積んで、だんだん憐憫とか慈愛とか惻隠だのといふヤクザな言葉が頭ではわかってくる。でも、仏のやうに真実分かつてゐるわけではない。だから、何かの拍子にふとその残酷さが、ひょいと表に出てくる。すなはち(本性を現す)のですね。
 男と女の間でもそれはある。好いた好かれたのと、表面的に愛情で結ばれているかのやうでも、いつたん揉め始めると本性を現し、残酷な結果を見ることもあるよねぇ…。
 さてJoeの場合ですが、生まれたときから赤い糸でカミサンに繋がれてゐたやうな気がします。
 そこで次の歌・・・
 
 女童に赤き糸もて括らるる塩辛蜻蛉 しあはせなるや

 馬の尾で括られてゐるわが自由飛ばむとすれば胴がちぎれる

 これどのやうに解釈してくださっても結構ですが……(苦笑)
タグ:土佐 里謡
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2007年09月23日

梁塵秘抄408番から

408番 舞へ舞へかたつぶり

『舞へ舞へかたつぶり 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に蹴ゑさせてん 踏み破らせてん まことに愛(うつく)しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん』


s-katatuburi01.jpgこれも多くの人に愛された歌ですね。子供の遊び歌でしょうか。
今も昔も子供は可愛くて残酷・・・
ですから生きることの下手なJoeなんかは、
この歌に哀しい結末の物語を想像するのです。
今回はストーリー性をだして、連作になりました。

 

愛しく舞へとの仰せ給はれどそりゃとても無理殻が重たい

世の中を軽くも舞へず鈍
(どん)くさい蝸牛のわれは唾吐きて這う

華の園いづくにありや舞はねどものろのろ這ひて探し求めむ

雅かに舞へぬ蝸牛のわれなれば猛き蹄が背
(せな)に迫り来

角出して振り仰ぎ見る目の前に今怖ろしき蹄下り来る 

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2007年09月21日

梁塵秘抄350番から

Greessunset.jpg350番 明石の浦の波

『明石の浦の波 浦や馴れたりけるや 浦の波かな この波はうち寄せて 風は吹かねども や 小波(ささらなみ)立つ』


ゆるやかに波が寄せて返すやうな静かなリズムがあって、好きなうたです。
終りのほうに「や」とはいる掛け声もいいぢゃありませんか・・・!

Joeの歌は明石を掛詞に使つてみました。告白のシーンです。

むねのちを明石の浦の夕まぐれきみの素足にささら波寄す

タグ:明石
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2007年09月19日

梁塵秘抄347番から

347番 小磯の浜にこそ

『小磯の浜にこそ 紫檀赤木は寄らずして 流れ来で 胡竹の竹のみ吹かれきて たんなたりやの波ぞ立つ』

かなり意味深長な歌(今様)なんで、少し言葉の解説をしておきませう。
(小磯→恋そ)と掛けられています。(そ)は禁止の助詞、反語的にも使います。
(紫檀赤木)高級な楽器の材料となる木材。
(胡竹)は横笛の材料となる竹ですが(此方来)と掛けているようです。 
(たんなたりや)は笛の調子を表現する言葉、一種の擬声語みたいです。

意味の裏表は次のようなことでせうか。
表の意味「小磯の浜に紫檀などは寄らないで、胡竹ばかりが流れてきて笛のような音を立てていることよ」
裏の意味「高雅なお方は近寄つてこないで、つまらぬ男ばかりがすり寄つてきて、へろへろした言葉をかけてくることよ」
こういふ裏の意味のある歌は面白いですね。
で、Joeの歌です。

ふるさとの恋その浜は空ろにも笛鳴るばかりたんなたりやと

さて、この歌347番の内容とは少し外れてしまいますが、
三木露風の詩のイメージが少し関つてきます。

露風に次のやうな優しい詩があります。
斎藤佳三の曲でよく歌はれる抒情歌です。

 ふるさとの  三木露風 

 ふるさとの
 小野の木立に 笛の音の
 うるむ月夜や

 少女子は
 あつき心に そをば聞き
 涙ながしき

 十年経ぬ
 同じ心に 君泣くや
 母となりても

 http://bariken.com/ram/Furusano.ram
   RialPlayer がインストールしてあれば
   ここから一部聞けます。なお画面は出ません。

この歌曲、まだ十代の頃のボクの愛唱歌でもありました。
いろいろな思入れがありますが、今はもうこと改めて書きますまい。
その想ひも347番と響き合い重なり合つてまいります。
ふるさと土佐の桂浜にも秋の風は吹き始めたことでせうね。

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2007年09月04日

梁塵秘抄359番から

asobi.jpg359番 遊びをせんとや

『遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ 
 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さえこそ動がるれ』


さて、これは梁塵秘抄でも一番有名な歌なんですねぇ〜〜。
と、力んで仕舞つては好い歌も詠めません。
以下の通りでご勘弁を〜〜


今日もまた遊びをせんとや行くわれに訝しみつつ妻こづかひ呉れぬ


しかしまあ、なんとJoeの歌のセコイことセコイこと・・・

カミサン「どこへ行くん?」
Joe「ちょっと友達と打ち合わせや」
カミサン「ふ〜ん・・・おそなるの?」(と、野口英世を数枚差し出す)
Joe「いや・・たいしたことないわ、ほな行ってくるわるんるん

遊ぶ言ふても、別に悪所通ひをするわけぢやないんで・・・(笑)
堂々とすればいいのに、なんとなく言ひづらいもんです。 
ま、せいぜいそこらの飲み屋で悪童連と焼鳥で一杯やるくらい。ビール

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2007年09月01日

梁塵秘抄343番から

simogamo1.jpg343番 君が愛せし綾藺笠

『君が愛せし綾藺笠 落ちにけり落ちにけり 賀茂川の川中に
 それを求むと尋ねとせしほどに 明けにけり明けにけり さらさら清けの秋の夜は』 

このムード・・・! すてきですねぇ〜〜 とても中世(12世紀)のものと思へません。
この時代の京都は源平争乱の頃です。街中も賀茂川畔も荒れて随分と騒しかつたに違ひありません。
でも何でせうかね? この歌には何だか静謐な空気がただよつてゐます。
戦の間の妙な静かさが感じられます。うたの底に仏教的諦念があるからでしょうか。

あれあれ、柄にもなく少し考へ込んでしまひましたね。  では・・・

 賀茂川の夜明けの霧に閉ざされてわれらの恋もひとに知らえず

やはりボクの歌の方が俗つぽいですね。 難しい。
なになに、霧に紛れてJoeがあひびきするなんざぁ〜許せねぇ〜って、
ままま・・・ 賀茂川じゃなくて、ロンドンだったら許せる? 
あはっ、今度は映画のシーンか… ハイ お後が宜しいやうで m(__)m

posted by 素浪人Joe at 21:47| Comment(2) | TrackBack(0) | 『梁塵秘抄』の言葉を借りて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月31日

梁塵秘抄342番から

342番 美女うち見れば

『美女うち見れば 一本葛にもなりばやとぞ思ふ 本より末まで縒らればや切るとも刻むとも 離れ難きはわが宿世』
(342番) 

    *美女(びんでう=読みはビンジョウです)  *宿世(すくせ)


生涯に この一人! といふ人に出会えることができるなら、この元歌のように
 (ふたりは一本葛になり本より末まで縒られて、身も心も一つに・・・)
といふのは理想だなぁ。 この歌はうらやましいほどに純粋。 
でも、そのやうにいかないのが世の常のこと。
だから人生面白いともいへます。  ではJoeの一首

かくほどに縒られ捩られ絡まれてみたきものなり美女(びんでう)なれば

なんとまあ、こりゃJoeの浅ましき執念〜〜〜
でも男と言ふものはいつもいつも美女にあこがれて・・・。
昔も今も変りありませんねぇ。俗人のかなしい本性です。

美女って、もちろん容貌や肉体だけのことではありません。
身も心も美しい人・・・なぁんていふと、
どこかの国の首相の抽象的な表現にも似てるなぁ〜〜。

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2007年08月30日

『梁塵秘抄』302番から

久々に『梁塵秘抄』の本歌取りをやつてみたくなり復活します。
このところはいくつかの元歌を検討しつつありますが、結構難しいです。
ひまを見つけて追々載せていきますね。

では〜〜

302番 野べにてたびたび逢ふよりは

『春の焼け野に菜を摘めば 岩屋に聖こそおはすなれ ただ一人 野べにてたびたびnohara.jpg逢ふよりは いざ給へ聖こそ あやしの様なりとも 妾らが柴の庵へ』(302番)

 これ、なんとも和やかな雰囲気の歌ですねぇ。
 若い乙女たちが春の野で若菜を摘みに出てゐます。
 すると岩窟に一人の僧が修行をしてゐるのですね。

 そこで乙女たちはいふのです。

 「お坊さま、いつもここでお逢いしてお話してますけど、
 たまには私たちの家へもお出でくださいませよ。
 私たちでいろいろご馳走も差し上げたいですし・・・」


 なんとまあ、色つぽい誘惑ではありませんか!
                                    この情景・・・昔は随分おほらかだつたんですね


     では、Joeの本歌取りを


 乙女子はわれを誘ふ春の野に出づればうれし聖にあらねど


さて『梁塵秘抄』の聖はどうしたかは知りませんが、Joeは俗人中の俗人ですから、
嬉しくなつてホイホイと乙女たちについていきますよ。

あっ、いけね・・・またカミサンに叱られそう〜
タグ:若菜摘み
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2007年03月14日

『梁塵秘抄』265番から

okina265番 ていとんとう

『金の御嶽にある巫女の 打つ鼓 打ち上げ打ち下ろし面白や 我等も参らばや ていとんとうとも響き鳴れ 響き鳴れ 打つ鼓 如何に打てばか此の音の絶えせざるらむ』 (265番)


  元歌と画像の情景は合つてません。 
 画像のほうは能の舞台で、Joeの短歌に合はせました。

  ほかになんと言ふ理由もありません。                               
  「ていとんとう」 といふ擬音が面白いなと思つたんです。

  それにしても、元歌のこの調べの高さはどうでせう!  まさに躍動・・・      

  ボクも 早速まねして 「ていとんとう」 を使ってみました。
  こちらは一転静かなムード、橋懸に出る翁のさまを詠んだものです。


 小鼓のていとんとうと静鳴れば摺足に出る翁の面は
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2007年03月12日

『梁塵秘抄』258番より

258番 空より参らむ

『熊野へ参らんむと思へども 徒歩より参れば道遠し すぐれて山峻し 馬にて参れば苦行ならず 空より参らむ羽賜べ若王子』(258番)

昔の人もやはり空を飛べたらいいなと思つたんでせうな。
熊野には○○王子といふ名の末社が沢山あつて、
熊野詣での際の宿もかねてゐます。
若王子はそのうちの一つなんでせうね。

熊野へは空より参らむ羽を賜べ 白浜空港経由こそよし

今なら東国からでかけるJoeは、やはり空路を取ります。
本来の修験者なら大峰の奥駆道経由で踏破するかも知れませんね。

posted by 素浪人Joe at 14:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 『梁塵秘抄』の言葉を借りて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『梁塵秘抄』256番から

256番 どれ近し

『熊野に参るには 紀路と伊勢路とどれ近し どれ遠し 
 広大慈悲の路なれば 紀路も伊勢路も遠からず』(256番)

熊野三山は熊野の本宮・新宮・那智大社の三社を言ひます。
梁塵秘抄のできた時代は熊野詣でが大流行しました。
伊勢神宮より熊野三山のほうが人気があったのですね。

その参詣の道が今世界遺産にもなった熊野古道です。
京からは少なくとも三つのルートがあつたと言はれてをります。
で、山越えの紀州路と東から海岸伝いにくる伊勢路とどちらが近いの?
仏の路だからどちらも遠くないよ〜、という元歌です。


故郷へ帰らむ道はどれ近し 魂のみ空を飛ぶぞ近けれ

Joeの方はそんな信仰の歌ではなく、もっと俗っぽい短歌です。
故郷土佐に帰る路はどれが近いのかと言うんですが、
そりゃぁもう、羽田から空路ですよね。
でもね…… これが気持として、すごく遠〜いのです。
だから仕方なく魂だけが時々夜中に飛んでいきます。

ちょっと付録になりますが、故郷にはいろいろな想いがあります。
続きを読む
posted by 素浪人Joe at 02:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 『梁塵秘抄』の言葉を借りて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月09日

梁塵秘抄253番から

253番 近江の湖は海ならず

『近江の湖は海ならず 天台薬師の池ぞかし 何ぞの海 常楽我浄の風吹けば 七宝蓮華の波ぞ立つ』(253番)



もろこ住む近江の湖は海ならず よりてブラックバスもはびこる


琵琶湖はもちろん海ではない。だから塩水でなくて真水。
小鮎、もろこ、鮒など淡水魚がいっぱいゐる。
若干汚れてきてはゐるが、北の方まで行くと静かな清々しいたたずまいに心が洗はれる。

元歌では『天台薬師の池』と言うてるが、Joeの歌ではやはり湖は湖である。
ボクは俗人、なかなか常楽我浄の域には程遠く、心の湖には三惑の波が荒れまくってゐる。
ブラックバスといふ欲望の権化も住み着いて、もろこといふ慈悲心を食うてしまふ。

琵琶湖もJoeの心の中もブラックバスばかり増えてきて、困ったことです。
とか言うて、これまたしょうむない只事歌となった次第でんな。な〜む・・・ 

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2007年03月08日

『梁塵秘抄』240番から

240番 海山稼ぐとせしほどに

『はかなき此の世を過ぐすとて 海山稼ぐとせしほどに よろづの仏に疎まれて 後生わが身をいかにせん』 (240番)


ヒルズ族海山稼ぐとせしほどによろずの人に疎まれて去る

昔からお金に頼って、つかの間の幸せを求めんとする人は多いやうですね。
元歌では「そんなことをしてると仏さまに総スカンをくふよ」と歌はれてゐます。
いっぽう現代のJoe's短歌では、もう人々にまで嫌はれて退場といふことになります。

お金も欲しいけどね…ま、そこそこでええのんちゃうか〜
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2007年03月05日

『梁塵秘抄』235番から

235 われらは何して老いぬらむ

『われらは何して老いぬらむ 思へばいとこそあはれなれ 
  今は西方極楽の 弥陀の誓ひを念ずべし』(235番)

 
今さらの悔過かひもなし壮年過ぎてわれらは何して老いぬらむなど
                                             
*悔過→けくわ
  *壮年→さだ

ええ歳こいてやたらと反省したうはない。
ぢゃあ、梁塵秘抄の元歌のやうに素直に弥陀の誓ひを念ずるか……とはいふものの、
ほんまのところボクは仏教徒ではない、どころか何教徒でもないんや。
で、信仰がないかといへば、そうでもなくて自己流の多神教徒なんだなぁ〜これが(笑)


大和民族はもともと神代から八百万の神々を信じてをつた。
ここにも、そこにも、かしこにも・・・神さまはいっぱいをる。

わが家の中にもカミサンが鎮座ましまして、Joeは朝晩伏し拝んでゐるのだ m(__)m

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2007年02月20日

『梁塵秘抄』222番から

222番 狂言綺語の誤ちは

『狂言綺語の誤ちは 仏を讚むるを種として 麁(あら)き言葉も如何なるも 第一義とかにぞ帰るなる』(222番)

 この時代は戯言や綺麗な言葉を並べるのは悪い事だ、とさへ言はれてゐたやうです。文芸なんてものは子供のたはぶれごと、でも仏を礼讃する歌や言葉なら許される。まぁ、これって今にしてみれば勝手な考へだと思ふなあ〜。

 わが歌を狂言綺語の誤ちと思ひてさびしく筆を置く夜

Joeは少し開き直つてみたけれど、やはり、綺麗ごと言ふて何ぼのもんじゃと思い直す。
ほんなら…、歌て、どないな言葉つこて詠んだらええねん……? もう寝よ寝よ〜〜
せやけど〜、よう似た感じの歌を前に詠んだなと思て、探してみた。

あつたあつた、こんな強気な歌やつた

雅語(みやびご)を連ねて歌になるとせば国語教師はなべてうたびと

国語教師だからって、みんな歌心がある訳あんめぇよ。

しょうむない歌や、やっぱり寝よ〜っと。
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2007年02月19日

『梁塵秘抄』030番から

030番 一度御名を称ふれば

『弥陀の誓ひぞ頼もしき 十悪五逆の人なれど 一度御名を称ふれば 来迎引接(いんぜう)疑はず』(30番)


 われいまだ十悪五逆に至らねど御名は称ふる幾たびも 南無


 元歌は、どんなに悪いやつでも一度「南無阿弥陀仏」と仏の名を称へれば、極楽浄土へ行けるのだ、といふ歌です。親鸞が歎異抄で「善人なをもて往生す 況や悪人においてをや」と言つた以前に、もう既にこんなことが民間の小歌として歌われてゐたのです。不安な世の中の心の支へとして、仏教が民間にも浸透してゐたことが分かります。

 さて本歌取りのほうはですね。
「わいはそないに悪もんやおまへん。ま、チョイ悪程度のもんですけど、なんまいだぁ〜は何回でも称へまつせぇ〜〜」と、『不信心のJoe』が開き直つたところですかな……

posted by 素浪人Joe at 00:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 『梁塵秘抄』の言葉を借りて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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