右肩を下にふすとき右目よりたれし涙はまくらにしまむ 文
これはミクシィの友人 文さんのblogに載った作品である。
不思議な歌である。これが過去形で表現されたのであれば、
単にかなしみの状態を詠んだとして普通に読者を納得させるだけだらう。
横臥している作者、涙が枕に滲みるといふのであるから、状況としては夜半のことか。
仮に 「右肩を下に臥すれば右目よりたれし涙がまくらにしみぬ」 としたらどうなるか。
平凡な感傷歌になつてしまふのだ。
しかし、この歌の結句は「しまむ」で推測の助詞「む」で終つてゐる。
意味としては(右肩を下にして寝たら右の目から出た涙は顔を伝はらずに枕をぬらすだらう)位のもので、どちらかといふと「只事歌」の系列にならう。
ばつさり説明的だと両断する向もあらうかと思ふ。
それでもこの歌には、ただの感傷を超えた冷静な寂しさがうかがへる。
さびしさを感じはするが、その寂寥感はキリキリ胸を刺すやうな深刻なものではなく、ましてや甘い感傷などではない。秋霜の厳しさではなくて、底辺にやはらかな春の孤愁がある。春夜のモツタリした感じに包まれた愁ひである。
このモッタリ感はどこからくるのかを考へてみた。まづ気づくのは音感である。全体に「M」の音が多い。
(右肩、右、目、涙、まくら、しま、む)と7回出てくる。
「M」は籠つてゐてまろやかな感じのする音で、読者の気持ちをホツとさせる。
ついでに言つておくが、ボクは短歌は本来朗読をすべきものだと思ふ。
だから、読み上げられて耳で受止めた音の感じを大切にしてゐるのである。
それから「たれし」といふ、はんなり(京都弁?)した言葉を4句目に置いてゐる。
この「たれし涙」は実によく効いてゐて、歌の中心部を押さえてゐるのである。
全体に平がなを多く用ひてゐるやはらかさと合まつて、未だ起こらないことを推測している「む」が、ここでピタリと納まるのである。
ただ一つだけ気になることをいふと、「たれし」の「し」は過去で、
「…しまむ」と時制が合はない気もするのだが・・・。
「たるる」としてもなんかねぇ・・・。
涙が出たのは過去で、これから枕に滲みるところと読んでも、よしとしませうか(笑)
この辺を考慮して詠んでゐるとしたら、この作者の才気ただものではない。