題詠100首も終つたので、少し余裕ができました。
しばらくぶりで、梁塵秘抄に行きますね。
438番 「ゐよゐよ蜻蛉よ」
『ゐよゐよ蜻蛉(とうぼう)よ 堅塩参らんさてゐたれ 働かで 簾篠(すだれしの)の先に馬の尾縒り合はせて かひ付けて 童冠者(わらべくわざ)ばらに繰(く)らせて遊ばせん』(438番)
子供の頃に土佐で唄つてたのに、次のやうな里謡がありました。
「とんぼとんぼ おとまり 明日の市に 塩買うてねぶらいちゃお」(土佐里謡)
よく藁しべなどを持つて、このうたを唄ひながら蜻蛉釣りをしたものです。蜻蛉が塩を舐めるのかどうか、今でも知りません。また梁塵秘抄との関連も今もつて分からないのです。
この小歌もかなり残酷さを含んでゐるやうに思ひます。「かひ付けて童冠者ばらに…」と言ふところに特にそれを感じます。子供とは残酷なものとある友人が言つてましたが、本当は人間の持つ本性そのものが残酷なのかも知れません。さうこうしているうちに、修行とかを積んで、だんだん憐憫とか慈愛とか惻隠だのといふヤクザな言葉が頭ではわかってくる。でも、仏のやうに真実分かつてゐるわけではない。だから、何かの拍子にふとその残酷さが、ひょいと表に出てくる。すなはち(本性を現す)のですね。
男と女の間でもそれはある。好いた好かれたのと、表面的に愛情で結ばれているかのやうでも、いつたん揉め始めると本性を現し、残酷な結果を見ることもあるよねぇ…。
さてJoeの場合ですが、生まれたときから赤い糸でカミサンに繋がれてゐたやうな気がします。
そこで次の歌・・・
女童に赤き糸もて括らるる塩辛蜻蛉 しあはせなるや
馬の尾で括られてゐるわが自由飛ばむとすれば胴がちぎれる