2012年01月13日

「潮音」2011年10月号出詠分

 
  
    #中年の桑田佳祐

 
 茅ヶ崎の恥と言はれしロック歌手病を超えて明るく歌ふ

 桑田佳祐も中年太りしてきたなぁと思ふけど、まあまだげんきだなぁ〜
 病気も乗り越えて、大阪まできて道頓堀で船を浮かべて歌ってた。
 浪速もなつかしいやうな他国のやうな変な感覚がする。
 カミサンもいなくなったし、もう類縁も少ない。
 

 今にしてサザンのリズム節回しわかるわかるよ老いし吾にも

 昔は桑田もサザンも大嫌いだったんだけど、今は面白く聴いてゐる。
 音楽に対するボクのキャパシティが広くなったんだらうなぁ・・・
 「あ、それそれそれっ〜」って感じで聴いて仕舞ふのだ。 我ながら変なやつ・・・



 浴衣着て団扇をもてばそれなりに様になりますロックの桑田

 桑田も浴衣の似合ふ歳になってきたんだなぁ


 うちなびくこころに添へて贈らむか浪速に歌ふ桑田佳祐


 桑田歌ふ道頓堀の紅い灯も吾には青し亡妻(つま)にも青し

 半世紀も昔の道頓堀は、まだ 〈紅い灯・青い灯 道頓堀の〜〉 なんて昔の歌の似合ふ街だった。
 宗右衛門町もムードがあったなぁ。もっともボクの給料ではお座敷に上がることはできなかったけどね。


 次の二首は出詠七首のうち潮音誌に掲載されなかったもの。
 掲載の基準がよく分からないけど、この月はどうも原稿で並べた順に上から五首採ったやうだ。
 選者からは一言もないのでよくわからない。

 生命(いのち)とはかく歌ふこと哀しみを超えてあふるる湘南ボーイ

 絶叫の桑田の笑みのやさしかり海の子なるよ汝(なれ)も我らも


 ボクは湘南の子ではないが、土佐灘の黒潮の流れる海を見て少年時代を送った。
 波は土佐よりやさしいが、湘南の海も好きだ。よくポカンと海を見に行く。






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2011年11月12日

「潮音」2011年9月号出詠分

  
      # 手 術 


  身の底に穴のあきたる自覚
(おぼえ)ありてボコリと腸(わた)がとび出してくる

   
鼠径部にヘルニアが出たといふので入院した。ほんの軽いオペであつたが4日ばかり入院した。


  
  
廊下にも病院臭はただよひてナース足早に去りゆく音す

       ボクは殆ど入院といふ経験がないけど、入ってみて寝ていると、
   カミサンの看病で病室に付き添った日々のことを思ひ出すのであった。
   為すこともなく寝ているとナースが廊下を行く足音さへ妙に淋しく聞こえた。
 


  
  
DNAを持ちて別るる細胞をいのちとや言はむ 不可思議なこと


 
カーテンを隔つる患者の話すこと聴きとれぬまま午後をまどろむ


 海に落つる眞赭
(まそほ)
の陽影身に染みてやがてわが血も浄くなりゆく
 


 以下は掲載されなかつた作2首

     
起き伏しのかろき目まひをいぶかしむ こは回天のきざしならむか

   
眩暈なんて回天のきざしどころか、むしろ死に至る病のきざしではないかと思ふのだが…
 

  
 
  けふひとひ透らぬ窓の内にゐて乳白色(ちちいろ)の影を夢に見てをり

       



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2011年11月09日

「潮音」2011年8月号出詠分



    # ennui 
            DSCF6200.JPG
 

   
 
寝返りを打てばくるりと廻る部屋このコスモスにわれは生きをり

    
狭い部屋で寝ている。寝返りを打つと眩暈がする。ボクは三半規管がおかしいので、
     ときどき眩暈がする。場合によっては、寝返りをするだけでくるくる目が廻るのだ。

  

 うた屑の切れつ端だけ噛みつぶしごろ寝してをり気だるき晝を

    
歌が詠めない日はせめて5音や7音の歌の断片でも書いてみる。
     調子が悪いとろくな言葉も出てこない。
 

 青きまま萎びてゆける梅の実にそと指觸れぬ霧雨の庭
 

 坂上る乙女の右の肩に留まる小人
(こびと)よ今日はどこまで行くや

     
ボクが坂を下りて行くと坂の下から若い女性が上がってくる。
       ボクの目には、なんだか彼女の肩に愁ひのこびとが留まつているやうに見える。 

 わが背にも負ぶひてゐたる時ありき孤独と言ふ名の痩せたる小人
 

 
 
    
次の2首は掲載してもらえなかったもの。

 
  
虹靄(にじもや)の身にひろがれる六月の荒れたる庭にねぢ花は立つ
 
  磨り硝子の透ける向かふに佇つ影は背を向け去りしひとに似て憂し

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2011年09月19日

「潮音」2011年7月号出詠分

    
  7月号掲載分が今頃のUPとなつてしまつた。元々ボクのずぼらな所為ではあるけれど、
 実の所は意味まで変つてしまふやうな直され方だつたので、UPするかどうかをを迷つてしまつたこともある。

 何のコメントもなく直されたので、色々考えたが提出時の元の形で載せておくことにした。
 選者の先生が手を入れられたのか、編集委員が直したのかは分からない。
 従つて直された歌も併せて載せておく。 
 

   
# An die Musik


 甘すぎるミルク紅茶を飲むやうにクラリネットはラルゴーに入る


 チェロの糸指の先より身に沁みて体躯
(たいく)ふるはす 人恋ふるがに

  この歌は一字をなくし結句を (人を恋たり) と添削されてゐる。
  これではまるで作者がチェリストに焦がれてゐるやうでどうにも落ち着かない。
  ボクがチェリストに恋をしたわけではなく、体躯といふのは楽器の胴で、
  それがまるで激しい恋をしてゐるやうだと言ふのである。  


 ヴィオロンとピアノフォルテのむつごとは地にひそやかに降る春の雨

 
これは次の様に直された。
  ・ヴィオロンとピアノフォルテのむつまじき語らひひそか降る春の雨
 ボクの使つた (むつごと) は (睦言) なのである。
 この歌はトルストイの小説「クロイツェルソナタ」をイメージしたもの。
 クロイツェルソナタそのものはご存じベートーヴェンのヴァイオリンソナタだが、
 この曲のヴァイオリンとピアノの掛け合いに不貞の危ふさを感じたのだらう。
 ボクの歌も官能的に捉へてベッドで語る (むつごと) としたわけだ。
 直されたものは形はととのつて品良くなつたけれども、ボクの意図とは違ふ。


 軽やかなモーツアルトのフルートにスキップを踏む浮かれ老いびと

 これは次のやうに意味不明の結句となった。
 (浮かれ老いびと) → (浮かれて老いて)  う〜ん。
 なんだこれはと言ひたくなるひどい直し方だ。これにはあきれてしまつた。

 さあここぞオケみな止まりカデンツァの見得切るの前の一瞬の靜



  以下の二首は掲載されなかつたものだが、自分としては愛着のある作品だ。


 イタリヤをハロルドはゆくヴィオラの音
(ね)ひとりし歩む主役となりて

 
(イタリヤのハロルド)と言ふのはベルリオーズのヴィオラ独奏付きの交響曲である。
 テキストはバイロンの長編詩「チャイルド・ハロルドの巡礼」によると言はれてゐる。


 オーボエの啜り泣く夜のわびしさは雨の日に読む通俗小説
 
 
オーボエの音は昔懐かしいラーメン屋のチャルメラの音に似てゐる。
 それでゐて通俗的もの悲しさが付きまとふ。
 ただし、モーツアルトのオーボエソナタなんかには、そのやうな俗つぽい所はない。
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2011年07月17日

「潮音」2011年6月号出詠分

 
     武相国境の丘に住んで 


      昭和49年の港南台駅付近、低い駅舎がぽつんと見える  

 
  葛の花あちこちに咲く丘なりき港南台駅開業以前

 
      
昭和51年当時まだまだ住宅も少ない



  駅前に店のなき頃カート引き1.5qを買出しに往きき


      
昭和52年、やっと住宅が建ち始めた


  カート引きて往きて復りし若妻の額の汗をまだ憶えゐる


  どのやうな喜び悲しみ持ちしやと呟きて問ふ妻の写真に


  半世紀を共に暮らした妻のこと俺はどれだけ知つてただらう



  横浜は南のはづれ、武相国境のあたりの丘に住んで40年を超えた。
  昭和44年に越してきた頃は、電車もなければ人家もろくにない、山ばかりの田舎。
  長男は小学校低学年、次男は2歳だった。
  今の港南台駅周辺と競べると本当に今昔の感がする。
  
  亡くなつた妻とは、一緒になる以前からの付き合いをいれると、
  50年以上になるが、そのうちの大半をこの地で暮らしてゐることになる。
  墓地も藤沢に近い夕富士の美しい丘の上にあり家からは30分で行ける距離にある。
  
  添付の写真は「こうなんの歴史アルバム」から転載させていただいたもの。

  
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2011年06月23日

「潮音」2011年5月号出詠分

   
   大震災に

     3月15日締め切りの5月号に間に合ふやうに急遽詠草を送った。
     現場を見ないで詠む機会詠は難しい。
     TVの映像を見て詠んでも、それは放送記者の目、自分の目ではない。

    カメラ枠の外にある、写されなかったところの現実を、
     どれだけ作者の心の目で見極めるることができるか…    
     どれだけ災害現場の人々の心に近寄れるか…
     それは大いに疑はしい。文字を操るだけの歌でははなはだ虚しい。


 歌虚
(むな)し三十一文字に語れざる地震津波の地獄絵のさま

 
 津波十米と聞けばやむなし人の智の器を越えし地球の嚔
(くさめ)

    本当は20m以上の津波だったといふ。 想像もできない…

 
 
 映像を見るのみなるに背が震ふ 老い人の上
(へ)に海は崩え落つ

   
逃げ遅れて、20mもの高さの水の壁が落ちかかってくる恐怖…
 

 飯
(いひ)食みてひとり涕(なみだ)をこぼしをり塩味なればおかずは要らず



 大地震
(おほなゐ)は天災なれど原電の事故を天災と思(も)ふをためらふ




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2011年06月20日

「潮音」2011年4月号出詠分

 

         IMG_1108.JPG


  音もなくそつとカーブを曲りきて嵐電は廣隆寺の前に留れり

  
  中京
(なかきやう)のイノダコーヒは盛りゐて若き囀りやまず続くも 
   
   
inoda.jpg


  
  曇り日の石塀小路ぽくぽくと歩めど今日は舞妓に会へず


      
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これは去年京都に行つたときに会つた舞妓叶祐美ちゃん。
                某snsにおける友人の知人だ。最近はお天気おじさんの石原さんと共に
                製薬会社のCMに出てゐるので見た方があるかも。


  大和路の旅に出会へる駅の名に今日も酔ひたり此処は〈京終〉(きやうばて)

      京終は桜井線で奈良の次の駅。「終」といふから奈良市街はここで終りかと思ふと、なになにまだまだ家並みは続く。
      昔の平城京はここまでだったのか…。ゆかしい地名である。    
   


  京の友ゆ馬のはなむけに給はりし伏見の酒は既に底つく

    
ああ〜伏見の軟らかな口当たりの酒が飲みたいなぁ

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「潮音」2011年3月号出詠分

 
 DSCF0067.JPG DSCF0068.JPG DSCF0073.JPG   
         
 
       『波濤集』より     

 この星に神が降せる人間のいさかひ止まず生命とりあふ

 彼方より死に行く星を視つめゐる目もありと思ふ 死んではならぬ

 情けない死に様がまう見えてくる花散る里のほら直ぐそばに

 夜の闇は陽の差す裏にあることと思ひて安らぐ小さき生命は

 ITに踏み入ればなほ忙
(せは)しくてわれらの時間幾許もなし


  「潮音」3月号にこれらの一連を出詠したときは、まだ3月11日の震災は起きていなかつた。
  これらの歌は、神を恐れぬ人間がこの星(地球)を汚し壊してゆくのを、心配して詠んだものだ。

  1首目は地上で何時までも止まぬ戦争を嘆いたもの。
  2首目は宇宙人が地球の滅びて行くのを見ているぞといふ警告。
  3つめは、浮かれてゐるうちに情けない地球の死が直ぐそこに来てゐるぞ、と言ふもの。
  4首目・・・・  かなしく、そして悔しくなるのでもう止める・・・
  
  人類は進歩と錯覚しながら、自らの星を壊してゆく作業を営々と進めてるのではないかと思ふ。
  はからずも遭遇した今回の災害は、神が人間を試されてるやうにも思ふ。

  目一杯走り続けてきた私たちは、いま一度立ち止まり、ゆつたりとしかし足を地に着けて歩み直そうではないか。
  核利用はもともと人殺しの道具としての武器から始まつたものだ。今は民を潤す電力を生み出してゐるとは言へ、
  これが最早暴走しかけてゐるではないか。

  原電なんかいらない。 そのために文明が一時的にあとずざりして、不便になろうとも、この星を破壊してしまふより余程良い。

   
   
滅びへの道を辿るかわが星は驕りたかぶり自らを壊す
   
  過ぎゆきの甘き歳月今にして悔ゆるは遅し空燃えて落つ

 
この2首は掲載されなかったものだが、原電の事故を思ふと震災以前に詠んだこととの符合に身が震へる思ひだ。
posted by 素浪人Joe at 02:52| Comment(2) | TrackBack(0) | 日々に詠ふ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月10日

「潮音」2011年2月号出詠分

またまた、サボってしまつた。やっと2月号分をUPする。
2月分は波濤集へ掲載していただいた。
少し前の方へ掲載されて悪い気はしない。
この程度で喜んでいてはいけないのだけれど・・・

 でも1首目は自分でもちょっと面白いと思つてゐる。
 後はゴミ捨ての歌だ。なんともいやはや・・・

 「波濤集」

ゆふされば灯ゆらぐ砂浜に道ならぬ戀も落ちてゐる秋

生くるとはゴミ捨つることと悟りたり今朝はプラゴミ嵩高く積む

独り居の生活
(たつき)は荒れて片付かず新聞書籍皿鉢の山

生活具散らかる部屋を抜け出して鎮まらぬ身は雲を追ひ行く

前世は戦国雑兵に違ひなし食品売り場の夜の徘徊

  
以下2首は掲載されなかったもの。
   生首の歌は前の戦国雑兵の続きである。

生首の重さを腕に覚えをり怖れ震へて目覚むれば雨
 
今日もまた序詞
(じょことば)のみを繰り返す何にたよるやたまゆらの世を
ラベル:波濤集
posted by 素浪人Joe at 03:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々に詠ふ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月17日

新春20首詠選者の評

 「古都逍遙」の選者評 

新春20首詠について、潮音選者の評も載せておく。(敬称略)

過分なお褒めと思ひ、いささか面映ゆい感じもするけれど、
一応記録として転載させていただくことにした。

これを励みに一段と精進したいと思つてゐる。

          〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜   ◇   ◇   ◇   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
 
 「潮音」平成23年1月号より転載

 妻を亡くし、一人古都を逍遙するといふ一連。感傷的になりがちなテーマであるが佛像や景物と対話するかのように表現された一首一首は感情の抑制された作となっている。読者の心をも落ち着かせてくれる連作である。 (鈴木隆夫)
 
 歌題としては目新しくない旅行詠ではあるが、一首一首に作者の心が読み込まれ、恰も同行の一人になつた思ひで、立ち止り立ち止り鑑賞することが出来た。癒し系の作品である。 (工藤邦男)
 
 少し大まかに流れすぎた歌もあるが、古都のみほとけと故人に静謐感が漂っていてよかった。みほとけの指と頬の間の宇宙、店の女あるじの天平の顔、邪鬼が自分の顔に重なるなどの発見が全体を引き立たせている。 (平山公一)

 古都を逍遙する中で出会ったかそかなものに、しっかり目をとめている。ゆったりと詠まれ、古都の風物との心の通い合いが感じられる。教養のゆたかさにとどまらず、深い洞察力も感じられる。 
 (木村雅子)

 
  
posted by 素浪人Joe at 02:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 日々に詠ふ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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